台風襲来に思うこと

「7月としては最大級・・・。」というキャッチで始まった台風8号の襲来。

(チョット)南海の離島に住む身としては台風は大きな災害をもたらす一大事。

 

「最大の・・・」と早いうちから報道などで騒がれたため、島のお店には緊急用に食品を買出しにきた人たちが並び、それなりに物理的にも心理的にも準備が進んでいたようです。

が、合わせてよく聞いたのが「ここ何年もちゃんと台風あたってないから今度も大丈夫だよ」みたいな世間話。何しろ世間話ですから、どこまで本気だ?というのもあるでしょうが、この「今度も大丈夫だよ」というのは、ときに事故防止、防災、における大きな危険要因ともなりえます。

「正常性バイアス」という奴です。ざっくり言えば、根拠のないまま、異常事態を通常の範疇であると自身に認識させることです。正常な精神状態を維持するためには至極当然、かつ効果的な心理的効果で、パニックにならずに行動するという意味では、決して悪いことではないのですが、過度にこの効果が働くと危険を正しく危険として認識できなくなってしまいます。

たとえば今回なら、天気図を見るでなく、予報を分析するでなく 「前も何ともなかったし今度も大丈夫だろうから、騒いではいるけど、特段の準備はしなくていいや・・・。」「みんな大丈夫って言ってるから大丈夫でしょ」と、客観性をいったん横においたまま、「まあ大丈夫」ってなっちゃうかもしれない。

実際、ほとんどの場合は「大丈夫でした」ってなるとは思うんですけど、いったん、災害化へのプロセスに乗ってしまうと、歯止めが効かないまま、被害を甚大に拡大させてしまう可能性があります。ことが起きてからだと打てる対応なんて限られてきます。ましてや台風とか大型の自然災害ならなおのこと。

災害や事故に対して、ある程度の可能性が見えたら、「きっと来るはずはないけど来た時に備えよう。」という気持ちがとても大切。それでも、被害が出るときは出ますけど、少なくとも歯止めがきいたり、被害が最小化できたりするはずです。

今回の台風では早い段階で気象庁から「特別警報」なるものが発表されましたが、この特別警報が作られた背景には、通常の注意報や警報が見慣れたものになってしまって、あまり危険の可能性が認識できなくなったという一面もあるのではと、うがった考え方もしてみたり。通常の注意報や警報にたいして「正常性バイアス」が働いて緊急性が薄れたりしてませんか?

繰り返しになりますが、買出しの素早さなどを見るにつけ、今回は(報道などで騒がれたこともあるかもしれませんが)比較的早い段階で多くの人が台風の準備をきちんとしている状況だったのではと思います。

準備のうえで「今度も大丈夫だよ」ならば「そりゃそうだ」ですし、たいして影響が出なくてもければ、笑い飛ばせばそれでよし(笑)

これが「たぶん大丈夫」の結果「たまたま大丈夫だった」。というのとは、同じ「大丈夫」でもその意味合いは大きく異なると考えます。

 

ボーイスカウトのモットー(?)に「そなえよつねに」というのがありますが、まさに至言。

 

さて。台風のこととして書いてみましたが、この「正常性バイアス」とは、おおよそ多くの人間生活の中で発現をしていると思います。

極端な例ですが、目の前で交通死傷事故が起こってそれを目撃したとします。
正常性バイアスが働かなければ、「交通事故が怖いから車を運転しない」などのネガティブな思考に陥り、日常生活に支障が出てしまいます。
逆に全くの他人事として認識し客観的な根拠もないまま「交通事故は特殊な状況であり、私は交通事故に遭うわけがないから大丈夫」という思考は正常性バイアスの過剰動作といえるでしょう。

理想論ではありますが、交通事故は危ない→自分はそれに対しこのような準備をしている(客観的分析と実際の運用)→だから遭遇の確率は低く日常的な活動において支障はないはずだ→通常通り(あるいはそれに準じる)活動を行なえる。という形で思考が進むとけっこう健全な結果にむかうのかなと思います。

僕たちの仕事で言えば、それは海況判断だったり、安全管理だったりの中で「僕は大丈夫」「うちなら大丈夫」とか、気づかないうちにこんな考え方がなされてはいないでしょうか?

ときには、僕らの「大丈夫」とか「常識」は一般に通じないことだってあるやもしれません。
それに「大丈夫」や「常識」という言葉が意味する内容は、思いのほか個人によって大きく異なるもの。そこにもってきて、その「大丈夫」とか「常識」に無意識にバイアスがかかっていたらと思うと・・・。

 

共有の尺度をもって状況を判断し、あるべき可能性に対して準備をする。そのうえで思いきり楽しみたい。

と、遊びを供給する側として強く思うところなのです。